千手院の日々


千手観音様について~その後~

前記事千手院ご本尊「十一面千手観音菩薩」の詳細判明の中で、関西大学の長谷洋一先生に見て頂いた事をご報告いたしました。あれ以降先生より以下のご推察を賜りましたので、ここでご紹介させて頂きます。
いろいろな資料を統合しての考察でございます。非常に説得力があると私も考えております。

――――――――――――――以下引用――――――――――――――
正応2年(1288)
 刀鍛冶「関七流」のひとつ奈良派の兼常氏らは、春日神社北隣に千手院を創建、菩提寺とする。
 開基は壁天梵圭。【明治初年の寺院明細帳による】
元亀2年(1571)
 8代兼常が春日神社の北隣に千手院を開基建立。【「兼常系図」(美濃刀大鑑)による】
元禄元年(1688)年
 龍泰寺17世天庵正尭を拝請開山とし、泰梁克玄が開法道場として再興。
元禄7年(あるいは9年)(1694年・1696年)
 現在地(西日吉町)に移転。
寛保3年(1743)
 火災焼失。
延享年間(1744~48)
 統州孝伝により再建、今日に至る。
                            以上、『岐阜県の地名』(平凡社)による

寺蔵の棟札には、元禄9年に千手院が焼失したことが記載。
また『新修関市史』史料編4にも、文政8年の写しながら、元禄10年春に千手院の御願により「御地頭様より寺地申受け候」とした古文書が掲載。発給人は「千手二世泰梁」。

千手観音坐像は、元禄元年の開法道場の本尊と思え、元禄9年の火災によって本尊像のみ救出、移転後も本尊として祀られた・・・ということかと。

もと友学作の千手観音像があり、それが後に何らかの事情で失われて、やや古作の千手観音像に代わったことも想定されますが、現状では、頭光中央と白毫の位置が合っており、像底部と台座天板の大きさも違和感(寸法違いなど)ないことなどから、元禄9年の火災の際に本尊像のみが救出され、移転後の元禄16年に本尊台座、光背の新調、脇侍?像の製作付加がなされたと考えております。

――――――――――――――引用終わり――――――――――――――

沢山の人の想いが幾重にも重なってようやく、今現在千手観音様はあそこに座ってらっしゃるのですね。
あらためてありがたいと感じる次第でございます。

末筆にはなりましたが、関西大学の長谷洋一先生に改めて感謝申し上げます。

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